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3日間お預けを喰らって、やっとやってきたその時だ。もう先端が、柔らかくて暖かく湿ったそこに分け入ろうとしたその瞬間、パンネロが突然跳ねるようにして起き上がった。頭の中は蕩けきったパンネロを蹂躙し、感じさせ、泣かせることで頭がいっぱいだったバルフレア、虚を突かれとっさに反応できず、そのままの姿勢で、石のように固まってしまう。
その隙にパンネロはさっきバルフレアがベッドサイドテーブルに置いたセーターをつかみ、頭から被りながらベッドからするりと降りると、一目散にドアに向かって走り、
「いっけない!!オーブン!!」
などと言いながら、階段を駆け下りて行ってしまった。
残されたバルフレア、一体何が起こったか未だに把握できず、とりあえずベッドの上に座り直す。そして、パンネロが階下に慌てて駆けていったこと、“オーブン”と口走っていたこと、そして、鼻先をパンが焼ける香ばしい香りがくすぐったのに、パンネロがパンを焼いていたこと、それをそのままにして慌ててオーブンを消しに行ったこと、しかもそれを、
(あいつ……一番盛り上がったタイミングで……俺を放って行きやがった……)
バルフレアは、はぁ…と大きくため息をついて、手で顔を覆った。それからイライラと髪をくしゃくしゃと両手でかき回した。
(よりにもよって!あのタイミングで!)
である。行き場を失って持て余したギラギラとした衝動とか、あんなに感じまくって、「もう我慢できないの」といった風な可憐でいていやらしい風情、それが、パンが焼ける匂いで吹っ飛んだのだ。
(たかがパンでこれかよ……)
プライドとか男としての沽券とかそういうデリケートな所を、めちゃくちゃにかき回されて、引き裂かれたような気持ちになる。つまるところ、パンv.s自分で、パンに負けたような気がするのだ。
バルフレアは自分のローブを羽織ると、パンネロを追って、足取り重くキッチンに向かう。キッチンのドアの隙間からは灯りが漏れ、ついでにパンが香りも漂ってくる。だが、焼きたてのパンの幸せな匂いも、バルフレアを苛立たせるだけだ。
ドアを開いてみると、オーブンミトンをしたパンネロが、ちょうどオーブンからパンを取り出しているところだった。上手に焼けたのだろうか、「わぁ!」と小さく歓声を上げ、目を輝かせている。だが、そんな愛らしい様も、バルフレアを余計にムカムカさせるのだ。
その時、パンネロが台所の入り口に佇んでいるバルフレアに気が付いた。微笑み、手に持った焼きたてのパンをうれしそうに見せる。
「見て!大成功!上手に焼けたでしょ?」
うれしさの余り、パンネロはバルフレアが苦虫を噛み潰したような顔をしているのに気付いていない。バルフレアは扉の溝に肘を当て、手をこめかみの辺りに当てて、返事をせずに改めてパンネロを見つめる。態度で気付けというメッセージだ。だが、パンがおいしそうに焼けてうれしくてたまらないパンネロがそれに気付くこともなく、オーブンの皿を鍋敷きの上に置き、
「バルフレア、明日帰ってくるって言ってたでしょ?きっと私が寂しがってるって思って、大急ぎで帰って来てくれると思ったの。だから、お腹空いてたら大変!と思って焼いたんだ。」
そんな健気なことを言われると、行き場をなくした性欲でカリカリしていた自分が大人気なく思えてくる。そもそも、明日帰る予定だとパンネロに伝えたのはバルフレアだ。予定通り帰っていれば、こんな不幸な事故は起こらなかったわけで。
(サプライズの代償、か……)
だが、やる気は完全に、あとかたもなく消え失せてしまった。
(つーか、今は何をされても勃つ気がしねぇぜ……)
バルフレアはパンネロに気付かれないよう、小さく息を吐くと、棚からグラスを出し、ワインラックから栓が開いているのを選び、注いだ。パンネロはバルフレアの反応が薄いのに首を傾げていたのだが、バルフレアが無言で酒をあおるのを見て、ようやく自分の失態に気がついて、小さく「あ…!」と叫んだ。バルフレアがカウンターにグラスを置いた時の、カタン、と響いた小さな音にびくりと肩をすくめた。
「…………あ、あの、ね…バルフレア……?」
「気にすることはない。うまそうなパンだ。」
口ではそう言うものの、言葉には棘が含まれていた。おまけに、バルフレアはパンネロを見ようとせず、2杯目をグラスに注ぐ。パンネロがしゅん、とうつむいてしまうのがわかったが、バルフレアもどう言葉をかけていいのかわからない。気まずい沈黙が続いた。空気がゼリーになってしまたったかのようだ。謝らなくてはと思うのに、口を開こうとすると、ゼリーになった空気が口の中に流れ込んできて呼吸すらさせてくれないのだ。パンネロはオーブンから取り出したパンを見つめ、バルフレアは黙って酒をあおる。
「………ごめんなさい……。」
聞こえるか、聞こえないほどの小さな声でパンネロが謝罪の言葉を口にした。その声の頼りなさがバルフレアをまたやるせなくさせる。まるで自分がパンネロをいじめているようではないかと思う。
(だが、どう考えても、あれはないだろ……)
だが、沈黙が気まずいのはバルフレアも同じだ。いい加減におとな気ない態度をやめて、パンネロを安心させてやらねば。それにはパンネロがごめんなさいと口にした、このタイミングしかないのだ。何か仲直りに良い手はないかとバルフレア周りを見渡し、ワインラックにある果実酒を見つけた。パンネロが飲んでみたいとせがんだので買った、柑橘系の果実酒だ。金属製の蓋で、すぐに開けられたのがありがたかった。コルク抜きはパンネロが立っているすぐ傍の引き出しの中にあったからだ。
バルフレアは小さながグラスを出してそれを注ぎ、パンネロに差し出した。驚いて顔を上げたパンネロの瞳が潤んでいて、自分の態度でひどく傷つけてしまったことをバルフレアは猛烈に反省した。グラスを持ったままのパンネロをそっと抱え上げると、大理石のキッチンカウンターに座らせる。
「いいんだ。俺も悪かった。」
頬を撫でながらの心からの言葉に、パンネロの顔がホッと緩んだ。バルフレアも安心し、自分のグラスを手に持ち、パンネロのに合わせた。カチン、とグラスが鳴る。バルフレアの態度が歩み寄ろうとしてくれるのを感じ取って、パンネロもそれに応えるべくグラスに口をつけた。オレンジ色の酒を一口飲む。
「……おいしい……」
まるでジュースのように口触りがよくさっぱりしている。緊張していたパンネロの喉を心地よく潤しながら通り抜けていく。パンネロの頬がほんのりと桃色に染まった。どろりとした濃厚な果実の味だ。なのに風味は爽やかな果物のそれで、パンネロはふた口めを飲む。おずおずと遠慮がちだった瞳に輝きが戻り、バルフレアに笑顔を見せる。
リラックスした雰囲気になり、バルフレアは自分が留守中のことを尋ね、パンネロはカウンターに腰掛けて、足をぶらぶらさせながらそれに答える。さっきの気まずさを埋めるように、パンネロはいつも以上にお喋りになる。言葉が途切れるのが怖くて、自然と飲むピッチが上がる。それはバルフレアも同じだ。仲直りはしたが、ベッドに戻ったところで続きを、という気分にはとてもなれない。戻ったところで出来る気がしない。それをごまかす為にパンネロの空いたグラスに酒を注ぐ。一見すると空気は和らいだのだが、別の緊張感が漂って、バルフレアもパンネロも杯が進む。
一人で留守番している間、夜になると家が広く感じて、一人で2階に上がるのがなんとなく怖かった、そんな他愛もない話をしながら、だんだんと頭のなかに靄がかかったような感じがしてきた。そうして、パンネロは異変に気が付いた。夜寂しくて家中の灯りを点けた話をしながら、頭は全く別のことを考えているのだ。
(バルフレアったら……いつまでここでお喋りしてるのかしら……)
もう仲直りをしたのだ。早くベッドまで抱いて連れてって欲しい。なのに、バルフレアはいつまでもキッチンから動こうとしない。バルフレアが折り合いをつけようとしてくれたおかげで、パンネロの失態も許してくれて、こうやって仲直りできたのだが、
(……まだ、怒ってるの……?)
男の生物として体や心におこる諸々の現象を、パンネロはまだよく理解出来ていないのだ。こんな時はパンネロの方が気を使ってあれやこれやと話しかけるのだが、今日はアルコールのせいか、いつもの自分と違う感じがして、思わず手に持ったグラスに目を落とした。
これを飲み干すと、今、お喋りしている自分は眠ってしまって、こうやってぼんやりとした頭で考えている自分が操縦桿を握るのだろう。なんとなくだが、そう思った。
(そうなったら、私、どうなるのかな……)
ふっと胸の辺りが熱くなった。導火線に火が点いたようだ。それを感じ、パンネロはこう思った。
(お喋りはもう終わり。)
お喋りなパンネロ、残念だけど、あなたじゃバルフレアはいつまで経っても私をベッドに連れて行ってくれないの。
(私だって、……したいんだもの。)
たった3日のことだが、毎晩大きくて固い体に包まれて眠っていたのだ。それがキングサイズのベッドに一人なんて寂し過ぎる。
(お留守番なんて大嫌い。)
パンネロはグラスに口をつけ、傾けた。オレンジ色の液体はグラスを滑り、パンネロの口の中に流れ込む。コクンと喉を鳴らし、口に入ってきた酒を一息に飲み干した。柑橘類のはっきりとした味に隠れていたアルコールの風味を、パンネロは舌の上にしっかりと感じてとった。喉の渇きを癒やしていた酒は、今度は焼き付くような熱をパンネロの体内に運んだ。
(いつも、バルフレアの思い通りじゃ、ないんだから…)
パンネロは空になったグラスをクルクルと回した。
(だいたい、いつも自分勝手なんだもの。ずるいんだから。自分がしたくなったら、いつだって、どこでもお構いなしなんだから……)
パンネロは少し乱暴にグラスを置いた。タン!と大きな音がして、心ここにあらずだったバルフレアは驚いてパンネロの顔を見た。
パンネロは足を伸ばし、それをバルフレアの体に巻きつけた。バルフレアが驚いてまじまじと自分を見ているのがおかしい。おかしくて、少しカワイイ。
そのまま足に力を入れて、ぐい、と引き寄せた。
「パンネロ……?」
普段からお行儀の良いパンネロにしては、あまりにも大胆な行動だった。知り合って、恋人になって、体を重ねるようになったあとだって、一度だってこんなお行儀の悪いことをしたことなどない。その驚きとは裏腹に、パンネロが足を開いてそれで自分の体を挟んでいるのに、セーターの裾の奥が見えそうで見えないのに心が奪われていて。
「バルフレアったら、どこを見てるの?」
そう言ってクスクスと笑って、セーターの裾を両手で摘んでみせる。バルフレアの視線がそこに釘付けになったのを見ると、即座に裾を引っ張って隠す。パンネロは背をきれいにしならせ、伸び上がると、バルフレアの胸に、ひた、と両手で触れた。
「お喋りばっかり。もう飽きちゃった。」
心臓がドクン、と大きな音を立てて跳ねた。触れられたそこから、何かエネルギーの塊のようなものが注ぎ込まれたように感じた。いつも優しい笑みを浮かべ、半歩下がってバルフレアの後からついてくる、そんなパンネロではない。触れられたところからどんどん熱が流れ込んで、体が熱くなった。手や足がいうことをきかない。喉が乾く。
「……飲み過ぎたのか?」
かろうじてそう言うと、ちらりとパンネロが飲んでいた酒のラベルを見る。アルコールの濃度が37度と書かれている。ジュースのような見た目に惑わされたが、アルコールが相当強い酒だったのだ。
(それを、あのペースで飲んでたのか…!?)
確かに、頬は朱に染まり、アルコールのせいで目の縁が珊瑚のように赤くなっている。
(酔って大胆になるってのはあるが……)
ここまで変わるのだろうか、とバルフレアは息を飲んだ。バルフレアが驚きのあまりまじまじと顔を見つめても、パンネロはそれを涼しい顔で受け止める。いつもならはにかんで俯いて、バルフレアに促されてようやく顔を上げるのに。水浸しになるほどバケツに何杯も水をかけられて、完全に消え失せたと思っていた性欲が、ぶすぶすとくすぶり始めるのを感じた。